全国書店新聞
             

平成15年1月11日号

出版不況打開と再生へ

出版関係新年名刺交換会が7日正午から日本出版クラブ会館で行われた。
今年は江戸開府4百年とあって、地元・神楽坂衆の木遣で出版5団体代表が入場。
出版クラブ野間佐和子会長の音頭によりワインで乾杯、新年を祝った。
各団体代表あいさつはプリントで配られたが、長引く出版不況脱出へ業界三者の叡智を集めようと真剣なメッセージが寄せられた。
日書連萬田会長あいさつ要旨は以下の通り。
昨年早々、底入れしたと見られたわが国経済は、景気足踏感が強く極めて深刻な状況にあります。
政府は2月以降、不良債券処理、市場需給対策、金融緩和の総合デフレ対策を発表しましたが、市場の反響は鈍く、加えて世界同時不況から設備投資の抑制、失業率の上昇、個人消費の低迷で、需要は減少を辿り、デフレスパイラルの様相を呈し、経済回復は長期化するものと予想されています。
出版業界の昨年上半期の販売実績は前年同期比1・5%減で5年連続のマイナス成長でした。
下半期の復調が期待されますが、厳しい状況と判断されます。
とくに雑誌の売れ行き不振が続き、中小書店は懸命な経営努力にも拘らず危機にさらされています。
それは書店の閉店数からも明らかで、昨年9月の時点で年間1千店を超える転廃業が報告されております。
再販制存置の結論以降、昨年は再販契約書の改訂、覚書の確認を経て新再販制が実施されました。
一方、出版物小売公正競争規約の改訂では、施行期限は3月末でしたが、過去に例のない3カ月間の延長申請、熾烈な議論を得てベタ付景品5%を7%に、期間制限年2回、60日の認定を受けたことは大きな成果でした。
今後、公正な競争のため正しい運用を図ります。
残された重要課題はポイントカードです。
その提供は多くの場合「値引」であり、再販契約上、割引に類する行為と判断されます。
出版社・取次・書店3者の契約は、独禁法上、適用除外が合法と認められた契約です。
違法行為を放置することは制度の崩壊を招くことになり、定価に対する読者の信頼を失いかねません。
幸いにも昨年11月、小学館が「ポイントカード中止のお願い」を、続いて講談社はじめ大手出版社も見解を発表しました。
私どもは、その姿勢を評価するとともに、出版社各位に再販契約の公平な運用と強力な指導をお願いする次第です。
デフレ深化のなか幾多の課題が山積しています。
組織強化では、各都道府県組合が組合加入促進を行っています。
昨年は、取次各社に協力をお願いし、書店販売網の拡大強化と充実に努力してまいりました。
取引慣行の是正と新システムの構築では、スタートアップ、流通改善両委員会で新時代の出版流通体制の確立に向けて責任販売制などの研究を重ねています。
本年は業界3者で具体的協議を行い改善策を追求したいと考えています。
情報・物流のネット化では、学校図書館の役割の重要性に鑑み、学校図書館の納入は地元書店が担う立場から「日書連マーク」を開発し、研修会を開催してきました。
各市町村における学校図書館ネットワークを安価に支援するシステムとして普及に努めてまいります。
さらに、店頭における雑誌年間予約システムの推進、沖縄県の週刊誌空輸、万引き対策の対応問題があります。
また、活字離れは深刻の度を増しています。
私ども書店は、次世代の読者へ活字文化、読書文化の普及に努める使命があります。
本年4月23日は「こども読書の日」が新設されます。
日書連は、本年も読書推進、増売に全力を傾注してまいります。
厳しい状況下ですが、数多くの試練に耐え、懸案事項への対応に努力し、業界の再生に向けて邁進してまいりたいと考えています。
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中央社の雑誌送品、トーハンに業務委託

昨年8月からトーハンの支援で経営改革を図ってきた中央社は、年末に新中長期経営改革計画「中央社アグレッシブプログラム」をまとめ、物流・営業の再構築と業務改革を3本柱に経営基盤の強化と独自の事業ポジション確立を目指す。
同計画で最も注目されるのは、雑誌送品業務のトーハンへの全面委託。
すでに雑誌返品業務は東京ロジスティックスセンターを共同利用しているが、1月中旬から中央社の雑誌送品業務はトーハンに業務委託し、運賃・荷造費、人件費のコストダウンを図る。
トーハンは中央社本社1階の作業所を借り受け、トーハン志村センター(仮称)を新設。
輸送各社との取引は継続するが、運賃の支払いはトーハンになる。
トーハンに業務委託することで、中央社は年間1億円強のコストダウンが図れる。
また、営業体制は本社への集中化を図り、北海道支店を撤退するとともに、名古屋支店・関西支社は一部機能を本社に移管。
余剰スペースは賃貸するなど有効活用と経営効率化を図る。
物流業務の委託、支社機能の再構築などで社員は30人減が見込まれ、管理職ポスト削減と合わせて経営スリム化を図る。
秋山秀俊社長は「物流、営業再構築、業務改革を3本柱にしたリエンジニアリングで、14年度は組織作り、15年度は大幅増益の実現、16年度にマーチャンダイジングの高度化で返品減少を実現する計画。
市場競争力のある中小書店支援、アニメ専門店の成長支援、二次卸マーケットの再整備で中央社の独自性を出していきたい」と強調した。

書籍は96%、雑誌は93%

トーハンは12月29日から1月3日までの書店店頭売行き動向を発表した。
これによると、書籍・コミック・ムック・マルチメディア商品の販売実績は年末95・1%、年始97・1%、合計96・0%。
雑誌は年末92・3%、年始94・6%、合計93・1%となった。
分類別の動向は年末年始の合計で書籍94・9%、コミック97・9%、ムック96・7%、MM商品109・9%、一般誌93・9%、週刊誌78・6%。

どうなる2003年書店業界

重苦しい暗雲の中で2003年が明けた。
暗い厳しいというが、全ての企業がだめになったのではない。
元気に生き生きしている企業も少なくない。
徳川時代の老舗で明治維新をくぐり抜け、昭和の大恐慌を生き残り、第二次大戦も勝ち残ってきた企業も現に多い。
確かに、一般的にはぼくたちを取り巻く書店経営環境は悪い。
昨年は中小零細書店ばかりでなく多くの名門老舗も同時に消えていった。
一方、発展している元気な書店もあるし、これから新規開業という新生書店も現実にある。
この事実は重要だ。
これらは何を教えているのだろうか。
どうして消えていったのかと、新規開業する勇気ある書店の胸中を密かに探り出せば、生き残る秘訣の結晶が手に入るのではないかとぼくは思う。
新規開業にあたって「出版界の玄人は一切採用しません。
他業界で活躍した異業種業界人で固めます」というベンチャー経営者の心意気の中に、何か示唆があるような気がする。
書店が生き残る議論は盛んだし書店人は皆難しい評論家ではあるけれども、では時代に適応する積極経営とはどういうことか、という商売の具体的な実行段階になると手も足も出ない、という無為の書店人も少なくない。
つまるところ、この乱世の2003年を生き抜くには、日書連で大局を知って踏み外さないようにし、同僚店と勉強しあって才覚を磨き局地戦を切り開く以外に方法はあるまい、というのがぼくの意見だ。
まず書店経営の局地戦は気のあった同規模の仲間書店と、それこそ決算書も見せ合えるような関係を育て上げ、店の欠陥を教えたり忠告されたりしながら経営していくこと。
一社でむりなら仲間でやる、チェーン店の展開へ発展するのもいいのではないか。
生き生きしている店は情報の収集と活用がうまい。
情報の収集ばかり熱心で、それを自店に活用する情熱と実行力不足、つまりは才覚がない書店が多いのではないか。
昨年、サンタクロース作戦を展開した大阪池田の耕文堂書店の春江健三さんは、他店の成功例を見てすぐ導入した。
スーパーでサンタのコスチューム上下一式を1980円で買い求め、外商部員がこれを着て家庭に本を届け、こどもと一緒の記念写真を店内に掲示して本人にプレゼントしたが、70件ほどの申し込みがあって喜んで戴けた、と春江さんは言う。
これも近隣書店が億劫がる政策を実行した才覚である。
ハリ・ポタの販売騒ぎもそうだ。
静山社の社長さんが魔女のコスチュームでロンドンの書店みたいに販売ムードを盛り上げたが、日本の書店スタッフはみんな冷めていた。
販売はお祭りなのだ。
みこしはかつぐもので、ぶら下がるものではないのだ。
ぼくの親しい医者は、商店経営は恐ろしくて自分にはとてもそんな度胸がなくて医者になった、と言う。
書店経営は実はそんなに大した度胸のいる仕事なのである。
なんとなくこれまでやってこれたのは三位一体や再販制のおかげ。
そんな書店人に今一番必要なのは他店より一歩先んじる才覚ではないかとぼくは思う。
もう一つは自店の位置を大所高所からたえず確認することである。
現代の日本で、書店自身の身になって将来を考える公的機関は日書連しかない。
日書連は、なるほどそう考えるべきなのかと全産業、行政の中で書店の大義名分という正道のあるべき考え方を訓練するための道場なのだ。
暴風雨の大海で自店の位置を正確に確認する海図の役割を果たすのも日書連。
山陰で2県にまたがり、1世紀以上繁栄してきた今井グループは、創立130周年事業として、それを2法人に改組統合した。
その作業は天文学的数字の課題が山積していたんです、と実務を担当している田江泰彦副社長は笑っていたが、見事、簡潔な形に統合を終えた。
現代の市町村合併劇は時代の要請であり、これは書店経営簡素化の生きた手本でもあった。
この統合政策は、日書連の大所高所からの政策策定の影響が大きい。
いよいよ書店も才覚の勝負の段階にきた、という感を深くした2003年の幕開けだった。

どうなる2003年書店業界

万物流転、栄枯盛衰、生成消滅、すなわち無常、変化が真理だとはいえ、昨年も1000店を越す書店の閉店があった。
書店経営の環境が劇的によくなる要素はなく、今年も「低迷」という言葉に象徴される年となるだろう。
日本の書店の10の基本特色としては次の事柄があげられるだろう。
1、決済条件が不利−送品・返品・決済がワンセットの即請求方式である。
回転差資金が得られない。
2、高正味・低粗利−主要国と比べると小売マージンが最低。
3、商品の回転率が低い。
4、ほしい本が、ほしい時に、ほしい量だけ調達できない、特にベストセラーなど売筋商品の機会損失が多い−取次・出版社が出荷調整している。
5、書店数が大変多い−オーバーストア、オーバーフロア。
6、品揃えが同質的・画一的だ−大型書店や立地のよい書店が勝組になる構造。
7、「書店」が日本型書店−「大衆雑誌コミック書籍小売業」という複合型。
8、取次への取引依存度が極めて高い−出版物の直取引が少ない。
9、90年代半ばから全国に大型店書店が次々出店−大型化・超大型化の進行。
10、90年代末以降、全国各地で書店の閉鎖店が増大−「再編淘汰」が進行している。
その他、書店労働者の低賃金など労働条件改善が進まないことなど、特色はたくさんある。
80年代までのような書店経営の牧歌的・田園的な時代は終焉した。
正確に言えば、90年代半ば以降とそれまでとは「質的に」全く異なる競争状態になった。
アルメディアの調査によると、出店が99年620店、2000年581店、2001年377店、2002年486店、閉店が99年1323店、2000年1382店、2001年1436店、2002年1286店あった。
4年間で約2000店誕生し、約5500店消えたわけだ。
そして、書店地図が大きく変った。
その間、書店の大型化・巨大化、チェーン化が急速に進んだ。
現在500坪以上の大型書店が約150あり、うち700坪以上が48、1000坪以上が26ある。
このような状況下で熾烈な書店戦争が起きており、今年も1000店前後の閉店があるだろう。
かつての書店戦争(第1次)は、ブック戦争の翌年の73年から始まった。
「内側」が新規参入者すなわち「外側」の弘栄堂書店(鉄道弘済会)や八重洲ブックセンター(鹿島建設)等にたいする出店計画撤回・売場面積縮小要求、コンビニエンスストアの週刊誌・月刊誌の取扱い阻止運動など、主としてアウトサイダーとの戦いであった。
平成書店戦争(第2次)は90年代半ばに始まった。
「内」vs「外」に加えて、「内」vs「内」という戦いの構図だ。
第1次も第2次も大手取次が背後でその戦争を後押しをしていた。
出版物売上高が6年連続下降し、市場縮小が続いている厳しい状況の中で、「喉をかっ切る書店競争」が全国の主要都市で起きている。
「共闘」「協調」「共存」も「棲分け」もない。
近くに巨大書店が出店すれば、対抗力のない中小零細書店、経営のノウハウのない書店は、必然的に閉鎖に追込まれる。
ナショナル・チェーン、リージョナル・チェーン、仲間が、近隣に大型店を出店し、自分も出すという悪のスパイラルに巻き込まれる。
こちらが出店しなければ、他が出店してしまうのだ。
大型店を大型店で迎え撃つという過激な構図であり、しかも仲間がライバル・天敵に変貌している。
その一方では、大手取次店は、支払率と成長性を見て、書店を厳しく「選別」している。
このようなかたちで書店戦争と再編淘汰が進行してきた。
書店大型化の最大の原因の一つが大店法の大幅緩和・撤廃である。
これまで大型店出店阻止側にまわっていた地域書店組合の主要書店が、一斉に出店競争の中に入ってきた。
書店が規模の経済を追求するのは、大型店、超大型店でなければ十分な商品調達ができず、入金報奨、派遣社員、その他の取引条件が有利にならないからだ。
取次は、熾烈な売上高競争をし、帳合拡大・奪取・死守競争をしており、それが書店大型化にドライブをかけ、新規店の初期在庫分の支払猶予数十カ月という過剰な条件等となっている。
さて、この第2次書店戦争に、巨大流通外資、総合商社、その他大手企業がまだ参加していない。
また、書店は売場面積の大きさを競ってきたが、品質・価格・サービスの競争をしてきたといえないことに留意しておく必要があろう。
競争は大事だ。
しかし、無謀なパワーゲーム、陣取り合戦、お互いが破滅に陥る競争、同質的・画一的競争状態からそろそろ脱して、差別化、個性化、棲分けをしたり、オンリーワン・コーナーを設けたりして「少し賢い」MDをするなど、「競争の質的転換」をすべき段階にきていると思う。

−無題−

『父・佐藤袈裟男と政文堂』佐藤文昭父・佐藤袈裟男は平成13年5月31日に満91歳で亡くなった。
7月、長野市内の普濟寺で法要・納骨するため遺骨を抱えて新幹線に乗った。
長野新幹線は登り勾配を少しも乗客に感じさせることなく、碓氷峠を軽々と登り切った。
新幹線車内は完全に外気と遮断され、軽井沢駅にそよいでいる高原の冷気を感じることはできなかった。
父は郷里・長野への往復に数え切れぬくらい碓氷峠を越えた。
かつて蒸気機関車に引かれた列車は横川駅から前1両、後3両のアプト式電気機関車に押され、ゆっくりとトンネルの多い急勾配を登った。
夏の炎天下でもトンネル内は涼しく、1時間弱かけて峠を登り切った列車内を軽井沢の涼風が吹き抜けた。
そこで再び蒸気機関車に交代し、善光寺平までの長い下り勾配を疾走したのである。
父は小学校4年で丁稚奉公のため上京した。
これが最初の碓氷峠越えであったろう。
大正10年、年齢は10歳。
日本は貧しく、同じような境遇の少年たちが少なくなかった。
奉公先の尚文堂書店は、岩波ビルが建つ前に岩波ブックセンターがあったところで、岩波ビル九段坂側の角にあった。
尚文堂書店は宮内庁御用達だったので、長野市の実家を憲兵が調べに来た。
店員の身元調査に来たわけだが、家族の者は袈裟男が東京で何をしでかしたのかと驚愕して憲兵を迎えた。
小学校の夜間学級に通いながらの丁稚奉公は辛かったろう。
しかし、仕事ぶりは次第に認められていったようだ。
尚文堂の主人は父を商業学校(夜間)に進学させようと思っていたのだが、奥さんの反対で行けなくなった。
主人夫婦のやりとりを立ち聞きして、父は悔しくて泣いたそうだ。
昭和60年頃に本人が書いた履歴書によると、大正10年に上京し、西神田小学校夜間部を関東大震災のため大正12年に繰上げ卒業したとある。
父に続いて弟の二三郎叔父も尚文堂へ奉公することになった。
先輩にはドイツ語教科書出版の三修社社長となった橘三雄氏がおられた。
父は小学校も満足に行けなかったが、好奇心旺盛な少年であった。
入門書などを学び、英語のタイトルぐらい読めた。
少年向け科学雑誌を愛読し、ゴム動力模型飛行機・模型モーターを自作した。
長野にいた盲目の祖母に鉱石ラジオを組み立てたこともあった。
住込み店員の父に自室があるわけはないから、閉店後の店内で夜更けまで工作をやっていたらしい。
バッテリー(鉛蓄電池)を自作して、熱く溶かしたピッチで仕上げの封をしようとしたら、バッテリー液(希硫酸)が飛び散って、売り物の書籍にかかって大騒ぎになった。
尚文堂は法政大学内に売店を出していて、昭和7年に父がその店長になると、夏の休講中に休暇をとって湯治を兼ねて里帰りするようになった。
結婚前の父は病弱で、湯治が必要だったそうだ。
法政大学売店は三省堂書店の経営に代わることになって、父は尚文堂から独立し、昭和12年2月、現在の場所に古本屋・政文堂書店を創業した。
宣伝チラシとして開店あいさつを吸い取り紙に印刷して法政大学の学生に配った。
当時の学生には、吸い取り紙は必携品であった。
尚文堂に代わった三省堂書店もしばらくして岩波書店に代わり、岩波が終戦まで担当した。
創業当時は部屋を借りる余裕もなく、店舗内に板を渡して布団を敷いて寝た。
昭和14年1月に父と母は結婚し、昭和15年4月に長男の私が生まれた。
結婚直後に父と母は長野へ行っている。
1歳ぐらいの私を普濟寺で撮った写真がある。
2、3歳の私が母の姉・たま伯母さんに手を引かれて上林温泉から地獄谷温泉への山道を歩いている写真もある。
それらの写真は父がオリンパスシックスで撮ったものだが、まだカメラが珍しい時代だった。
戦争中、家族を疎開させて東京の店を守っていた父は、たびたび長野を訪れた。
川中島駅近くの青木村から長野市内の岡田町へ移ったが、そこでも空襲を受けて最後に井上村(現・須坂市)に落ち着いた。
昭和18年から父は「徴用逃れ」で軍需工場である日本ダイヤモンド社芝工場に勤め、装甲鉄板等の硬度を計測する工具を生産していた。
私は戦前の自宅の様子をかすかに覚えているが、政文堂書店と、そこで働く父の姿は記憶がない。
工場から自転車で帰って来る姿を玄関先で見たのが一番古い父の記憶である。
戦争が激しくなり、書店は休業状態だったのではないか。
仕事は指先が器用だった父の性に合ったらしく、工場の疎開先を見つける役を引き受けるまでになった。
工場移転先を井上村に決め家族を先に住まわせたのだが、終戦で頓挫してしまった。
父が井上村で家族と数日を過ごし東京へ帰ると、4月の大空襲で九段・市ヶ谷は焼け野原となっていた。
留守番をしていたてふ叔母が燃えさかる店の中からリヤカーを引っ張り出していた。
当時、リヤカーは今の自動車ぐらい重要な商売道具であった。
終戦の年8月、その貴重なリヤカーを長野へ疎開させようと、父は自転車で長野へ向かった。
鉄道荷物では送れなかったのだろう。
リヤカーに積んだ荷物はわからないが、若干の米を積んでいた。
8月14日、終戦の前日、炎天下の国道を松井田へ向かってリヤカーを引いた自転車を走らせていると、米空母から発進した戦闘機に機銃掃射を受けた。
傍らの桑畑に飛び込んで難を逃れたが、この空襲で松井田ではかなりの犠牲者が出た。
街道沿いの旅館はどこも泊めてくれなかったが、ようやく1軒に頼み込み、持っていた米を出して泊めてもらった。
碓氷峠を一人で押して登ることは大変で、後押しの人を雇ったが、それは宿の主人だったと聞いたような気がする。
人を雇って坂道で押してもらうアイデアは、その時浮かんだものではないだろう。
九段坂がもっと急傾斜だった頃、坂の下には強力が客を待っていて、大八車やリヤカーが来ると駄賃をもらって坂上まで押したものだという。
私も父のお供で神保町まで行った帰り、九段坂でリヤカーの後押しをすると、アイスクリームを買ってもらうのが楽しみだった。
タンタンタンとコンプレッサーの音を響かせ、キャンデーやアイスを作って売る店が九段下にあった。
真夏の炎天下、ようやく軽井沢にたどり着いて汗を拭いた時には、心地好い風が吹いていたに違いない。
敗戦に打ちひしがれることなく、ひたすら店を再建することしか考えていなかった父は、まだ35歳の若さであった。
東京に引き返した父は、窓のない焼けトタンの仮小屋で寝泊まりしながら、店舗兼用住宅を半分自作で造りあげた。
昭和20年10月、法政大学授業再開と同時に政文堂も再開した。
小学校入学のため昭和22年に私が東京へ戻った時、その仮小屋にはフィリピンから復員したばかりの憲吉叔父と、ひめ叔母がいた。
満州から二三郎叔父も復員し、政文堂書店で父とともに働き始めた。
我々子どもには頼もしい父として生命力・生活力は輝いて見えた。
その真骨頂は戦中・戦後の困難な時代に発揮された。
母にとっても頼もしい夫だったろう。
汗まみれ、埃まみれの辛い難行だったあの碓氷峠越えが、父の生涯で一番輝いた瞬間だったのではないか。
戦後とは呼ばない時代になってから、父は町会長、書店組合支部長、選挙管理委員長、スキー協会会長、体育協会役員等を歴任し多忙であった。
複数の釣友会番付では横綱で、小唄の名取であった。
家族からみると商売そっちのけで遊んでいるように見えた。
戦後すぐ大型台風が何度かやってきた。
吹けば飛ぶような粗末な家の中で家族は不安な夜を過ごしたが、父は家族と財産を守る気構えに満ちていて、子どもたちにもそれがピリピリと伝わってきた。
停電した家の中には、どこからか調達した古い自動車用バッテリーで豆電球が点っていた。
父は千代田区スキー協会の役員として、教育委員会主催のスキー教室のため80歳過ぎまで毎年正月に碓氷峠を越え熊ノ湯温泉スキー場へ行っていた。
89歳から痴呆症で青梅慶友病院へ入院していた父は、長野新幹線の開通を知らなかった。
母の納骨の時、在来線特急で長野へ行ったのが生前最後の碓氷峠越えとなった。
戦災という危機はあったが、日本の成長・近代化とともに歩んだ父は、こつこつ努力すれば報われるという信念を実現できた。
楽天的な努力家だったことと、時代も幸いした。
昭和30年代、長野からの中卒少年たちが住込み店員として政文堂に就職した。
父は自分と同じ成功を少年たちにも与えたいと思っていたようだが、時代は変わり、独立暖簾分けの可能性はほとんどなかった。
父の認識と現実のズレは大きく、少年たちは閉塞感の中で退職していった。
私の代になってからの政文堂書店は、高度成長とバブル景気とも無関係で、零細商店のままであるが、そのこともかえって良かったと思っている。
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本屋のうちそと

新年を迎えることができた。
昨年の厳しい時代をそれなりに乗り越えたが、今年はどんな年になるのだろう。
「新年の夢は」と聞かれるが、夢と思われることを考える暇がない。
何かに追われているような、何かをやらねばという緊迫感がある。
何か心に不安が残り、不安心配症候群になったようだ。
これになると何をしていても、商売に関係ないことでも不安が募る。
全速力で仕事をしていると午前中で配達が終わってしまい、暇な時間が増える。
日常生活の中から活力と気力、そして変化を探し求めていかないとだめだろう。
届いた年賀状に「春が知性を揺さぶり起こす」とあった。
知性を揺さぶられるようなことを探さないとね。
写真に熱中しているお年寄りグループがある。
活気があり一生懸命、みんなで集まって寒い中、昼間のひととき写真を撮りまくっている。
撮った写真の批評会なるものをやって元気よく盛り上がっている。
中高年は元気だ。
今は絵手紙なるものが流行っていて、年賀状でもそれらしきものが送られてくる。
誰もが年賀状を手で書いていた頃から見れば、今はパソコンやワープロなどの活字で来ることが多い。
その中で手で書いた絵手紙は少しばかり気を引く。
このように何か楽しみを持ちながら商売をしていかないと不安に潰されてしまう。
誰もが不景気で誰もが大変な思いをしながら仕事をしているのだろうが、気持ちの持ちようで楽しくも悲しくもなるだろう。
皆様の今年の夢は?(とんぼ)

売上高2・0%減の585億円

栗田出版販売は12月26日、板橋区東坂下の本社で第65期定時株主総会を開き、決算諸案を可決した。
第65期(平成13年10月〜14年9月期)売上げは585億6300万円で前期より12億円、2・0%減少。
同業上位6社の平均2・2%減を若干上回った。
返品率は雑誌34・4%、書籍39・6%、合計36・7%で前期比0・1%悪化した。
営業費は生産性向上とローコストオペレーションにより、前期比8・4%削減。
営業利益、経常利益とも増加したが、貸倒引当金を積み増し、財務体質を強化した結果、減収減益の決算となった。
期中にCVSの帳合変更があり、売上げは19億円減少したが、運送費の削減にもつながった。
期中の新規店は107店、増床11店で売場面積は51199坪の増加。
中止・廃業店は129店、3343坪だった。
同日午後からの記者発表で栗田亀川社長は「売上げは5月までは順調だったが、6月のサッカーW杯から落ち込みが目立ってきた。
12月も想像以上に悪く、出版業界は6年連続のマイナスになるのでは」と予測した。

新春読者の投稿

バブル崩壊から10年余。
日本経済はいつ崩壊してもおかしくないと、去年もマスコミはこぞって書き立てた。
株や円の乱高下はあったが、日本経済はどうにか生きている。
いつまで続くのかこの不況。
よくよく考えてみるにあの高度経済成長とは何だったのか。
物などいくら持っても幸せにはならない、そして生活が豊かにならないこともこの不況下で知った。
どうしたら心豊かに安らかに生きられるのか、そんなことに気づき出した我々日本人。
私は戦前生まれだが、戦争をよく知らない。
戦後の食料難は子どもながらイヤというほど味わった。
また、住宅も同じであった。
それが今はどうか。
有り余って銀行の経営まで圧迫するほどに建設業界は困っている。
戦後の就職難も大変だったが、今日は様相は違うが失業率は高い。
1960年代から始まった高度経済からバブル経済までの30年間、我々は一体何を学んだのだろうか…。
出版、書店業界も同じ道を歩んできたと思う。
バスに乗り遅れるなと。
大書店と称する本屋は我が物顔で地方の街々に出店し、「ブック戦争」などという書店に似合わない言葉を吐き、平穏に経営していた地方の書店を駆逐し廃業に追いやった。
戦争とは勝負である。
勝つものもいれば負けるものもいる。
オレは負けないと思っている本屋が多すぎる。
こんな書店業界を読者はどう思われ、考えられるか知らないが、私は潰れていったり退散していったりした書店に「ザマアミロ」と言いたい。
同情などしていない。
取次などは書店を「勝ち馬」に乗せようと今まで随分と煽ってきた。
乗ったものも乗せたものも大罪であると言わなければならない。
地方書店がコンビニに食われる被害は大きかったが、そのコンビニも競争激化で廃業が多い。
「街から本屋が消えていく」などと読者は嘆いている。
こんなにしてしまったのも我々三者ではないのか。
生存競争だと頑張ったって潰れてしまえば「元も子も失う」話ではないか。

新春読者の投稿

私は空いた時間、野菜作りをしている。
ゴボウ、お米、インゲン、大豆、大根、カブラなどだ。
ゴボウは、土をかなり深く掘ると、いいゴボウができる。
お米の品種は「ヒノヒカリ」という。
ヒノヒカリは大阪府南部でさかんに栽培されている。
おいしいお米だ。
私は発泡スチロールの箱に土と水を入れ、そこに苗を植えている。
秋には、黄金色の重そうな稲穂が垂れる。
大豆は、八百屋さんで「この大豆、うちの畑で植えたら芽が出るやろか?」と聞くと、「さあ、どうかわからん」と言われて、まいてみたら芽がいっぱい出てきた。
おいしい枝豆がいっぱいできた。
カブラは種をまいたあと、上にワラを2、3日かぶせておき、芽が出てきたらワラを取る。
書店経営をしていて、売上がたくさんあった方がいいに決まっている。
けれども、今の日本経済はデフレスパイラルに突入したまま、そこから抜け出せない。
政府も有効な手を打っていない。
こんな時、心を込めて栽培すればするほど、たくさんの実りをもたらしてくれる野菜の素晴らしさ、自然の力の驚異は、人の心を和らげてくれる。
書店経営というのは人類が考え出した知的所産だ。
それは実は、自然には負けてしまうのだ。
4年、5年と野菜の栽培に熱中していれば、知らないうちに景気が回復していたと気づく日が、必ずやってくると私は確信している。
書店経営は、それまでがまんしていればよい訳で、野菜はこのようにいろんなことを私たちに教えてくれるのだ。

出身地別・02各賞受賞者リスト

〔北海道〕佐々木譲(新田次郎文学賞『武揚伝』中央公論新社)〔宮城県〕三浦明博(江戸川乱歩賞『亡兆のモノクローム』講談社)〔栃木県〕関口尚(小説すばる新人賞『プリズムの夏』集英社)〔埼玉県〕長嶋有(芥川賞『猛スピードで母は』文藝春秋)〔神奈川県〕織田みずほ(すばる文学賞『スチール』集英社)〔東京都〕米原万里(大宅壮一ノンフィクション賞『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店)、乙川優三郎(直木賞『生きる』文藝春秋)、高木徹(講談社ノンフィクション賞『ドキュメント戦争広告代理店』講談社)〔山梨県〕斉藤道雄(講談社ノンフィクション賞『悩む力』みすず書房)〔静岡県〕初野晴(横溝正史ミステリ大賞『水の時計』角川書店)〔愛知県〕早川大介(群像新人文学賞『ジャイロ!』講談社)〔岐阜県〕中村航(文藝賞『リレキショ』河出書房新社)〔石川県〕唯川恵(直木賞『肩ごしの恋人』マガジンハウス)〔大阪府〕河野多恵子(川端康成文学賞『半所有者』新潮社)〔京都府〕海月ルイ(サントリーミステリー大賞『子盗り』文藝春秋)〔兵庫県〕池内紀(桑原武夫学芸賞『ゲーテさんこんばんは』集英社)〔広島県〕高橋源一郎(伊藤整文学賞『日本文学盛衰史』講談社)〔山口県〕伊集院静(吉川英治文学賞『ごろごろ』講談社)〔高知県〕山本一力(直木賞『あかね空』文藝春秋)〔佐賀県〕寺村朋輝(群像新人文学賞『死せる魂の幻想』講談社)〔長崎県〕吉田修一(芥川賞『パーク・ライフ』文藝春秋)、栗田有起(すばる文学賞『ハミザベス』集英社)〔熊本県〕岡田智彦(文藝賞『キッズアーオールライト』河出書房新社)